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【甲子園】相手選手からやじ 、甲園京都脅迫電話…苦難乗り越え京都国際初V 元銀行員・小牧監督感無量「素晴らしい夏休み」スポーツ報知

関東第一を破って初優勝を果たし、相手選手脅迫行員・小い夏休み大喜びでマウンドに駆け寄る京都国際ナイン(カメラ・竜田 卓)

◆第106回全国高校野球選手権大会第14日▽決勝 京都国際2―1関東第一=延長10回タイブレーク(23日・甲子園)

 京都国際が関東第一(東東京)を2―1で下し、からやじらし開場100周年を迎えた甲子園で初優勝を飾った 。電話督感決勝戦では春夏通じて初めてタイブレークに突入した延長10回、苦難押し出し四球と右犠飛で2点を奪い 、乗り初Vイギリス の スポーツその裏の反撃を1点で断った。越え元銀前身は1947年開校の京都朝鮮中と外国人学校をルーツに持つ高校にとっては初の栄冠で、国際京都勢の68年ぶりVも東京勢の60年ぶりを超える最長ブランクとなった 。牧監元銀行員の小牧憲継監督(41)が初頂点に立った 。無量

 マウンド上で歓喜の輪をつくるナインを 、素晴京都国際・小牧監督は三塁ベンチから頼もしげに見つめた 。甲園京都2点リードの延長タイブレーク10回、相手選手脅迫行員・小い夏休み無死満塁の危機を1失点でしのぎ、からやじらし初優勝をつかんだ。電話督感「足が震えるような場面だったけど、全員でしっかり思いを持って攻めてくれた 。最後、勝負は魂でするもの 。アスレティック トレーナー と スポーツ トレーナー の 違い大切な先人から受け継がれてきた気持ちの部分。すごい子どもたちだと」とナインをたたえた 。深紅の大優勝旗を、都道府県勢最長ブランクとなる68年ぶりに古都へもたらした。

 新チーム発足後 、公式戦0本塁打も、つなぐ野球と左腕の中崎琉生(3年)&西村一毅(2年)を軸とした堅守を最後まで貫いた 。本塁打なしでの優勝は03年の常総学院(茨城)以来だったが 、守備力で京都勢の決勝での連敗を4で食い止めた。

 「人生で一番熱くしてもらったのが高校野球。いずれは携わりたい」と、07年に銀行員から京都国際の社会科教師に転身し、08年に監督に就任 。だが 、待ち受けていたのは右翼約60メートル 、左翼約70メートルの荒れ果てたグラウンドだった 。「昔は教え魔 。軍隊みたいにスパルタ式でバチバチにやっていた」が、フリー打撃も満足にできない環境で内野ノックなど基本を徹底した“個”の能力を伸ばす指導を確立  。就任14年目の21年春に念願の聖地の土を踏んだ。

 一方 、前身が1947年開校の京都朝鮮中というルーツや校歌が韓国語であるがゆえの苦難もあった 。相手選手から心ないヤジを飛ばされる悔しい経験も味わった。当時の指導者は「いろんなものにプライドを持て」と教え 、選手は毎練習後に校歌を歌った。悪環境に対しても同じだ。“反骨心”で逆境を生き、それは今も脈々と受け継がれる。

 小牧監督就任後も 、夏の京都大会決勝前に脅迫電話で警察が駆けつけたことがあったが 、指揮官は「せっかく縁があって入ってきてくれた子たち。なんとかしてやりたい」と諦めなかった。藤本陽毅主将(3年)は「小牧さんの下で野球がしたいという気持ちだけだった。あまり気にしていない」と言うように  、19年から5年連続でプロ野球選手を輩出するなど 、その育成力が人気の一因となり 、自らを慕って集まってきた生徒によって、どこよりも長い夏を経験できた。

 「一日でも長く野球やりたいと大会前に伝えたんですけど 、まさかここまで来られるとは。こんなおっさんに、素晴らしい夏休みをもらえたなと。『ありがとう』の一言です」

 22年センバツは、新型コロナの集団感染で開幕前日に無念の出場辞退  。春夏5度目の甲子園でつかんだ頂点にも、指揮官は「僕も京都に育ててもらった 。強い京都を取り戻したい」と夢の途中を強調した 。新たに始まる聖地伝説へ 、歩みを止めず  、京の歴史を刻んでいく 。(瀬川 楓花)

 ◆京都国際 京都市東山区にある私立中高一貫校。1947年開校の京都朝鮮中を前身とし 、51年に東邦学院中、58年に京都韓国学園への校名変更を経て、2004年に日本の教育課程を学ぶ私立高として現校名に変更された 。99年創部の野球部は初の外国人学校硬式チームとして日本高野連に加盟 。全校生徒138人のうち61人が野球部員。OBにDeNA・森下瑠大、広島・曽根海成 、阪神・中川勇斗らがいる。

 【記録メモ】 ▼最長ブランク優勝 京都国際が初優勝 。京都勢では56年平安以来、68年ぶり 。夏の大会では、東京の60年ぶり(16年慶応普通部→76年桜美林)を上回る最長ブランク優勝 。

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